星の瞬く夜に
東京の片隅にある、墨の匂いが染み付いた古書店「文現堂」は、まるで時間の流れから取り残されたかのように静まり返っていた。店内に差し込む午後の光は、無数の埃をきらめかせ、古びた木の棚に並ぶ本たちに、一層の奥深さを与えていた。文学、歴史、哲学……様々なジャンルの書物が、それぞれの物語を秘めてひしめき合っている。
その中で、高木渉は、まるで宝探しをするかのように、細い通路をゆっくりと歩いていた。彼は、幼い頃から星空を見上げるのが好きで、いつか自分の望遠鏡を手に入れるのが夢だった。今日は、ずっと探していた古い天文学の本があるという噂を聞きつけ、この店を訪れたのだ。
指先で埃を被った本の背表紙をなぞっていくと、ふと、薄暗い棚の奥に一冊の古い本を見つけた。それは、専門的な内容でありながら、美しい挿絵が添えられた天文学の入門書だった。ページを繰ると、色褪せた星図が目に飛び込んでくる。遠い宇宙の神秘に思いを馳せながら、彼がその本に手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
隣にいた女子高生の手が、まるで吸い寄せられるかのように同じ本に伸びる。二人の指先が、本の背表紙の上でそっと触れ合った。思わず顔を上げると、そこにいたのは、栗色の髪を揺らす、はつらつとした雰囲気の少女だった。透き通るような白い肌に、星屑のような輝きを宿した大きな瞳。彼女の瞳は、まるで夏の青空を閉じ込めたかのように澄んでいた。
「あ、すみません!」渉が慌てて手を引くと、彼女はにこっと屈託なく笑った。「いえ、こちらこそ。天文、お好きなんですか?」彼女の声は、夏の終わりの風のように心地よく、渉の胸にすっと染み込んだ。彼女の名は、山野辺美咲。制服の胸元には、彼女が手作りしたと思われる、可愛らしい流れ星のピンバッジが光っていた。それが、彼女の星への情熱を物語っているかのようだった。
美咲は、その本を手に取り、嬉しそうにページをめくった。「私、この本ずっと探してたんです。まさか、こんな場所で見つかるなんて!」と目を輝かせた。彼女の興奮した様子に、渉もまた、その本が自分にとっても特別であると伝えた。すると、美咲は少し考えて、とびきりの笑顔で言った。「じゃあ、二人で読んだ方が、きっと楽しいですよね!割り勘にしませんか?」
予期せぬ、しかし魅力的な提案に、渉は少し戸惑いながらも、すぐに頷いた。こうして二人は、一冊の本をきっかけに出会った。古書店のレジで、店主が「おや、珍しい。相合傘ならぬ相合本かね」と茶化すのを、二人は顔を見合わせて、照れくさそうに聞いていた。美咲の笑顔は、古書店の埃っぽい空気を一瞬にして明るくした。
後日、美咲は渉に、星の絵が描かれた可愛らしい栞をプレゼントしてくれた。それは、彼女自身が描いたもので、裏には小さな文字でこう書かれていた。「星は、いつも私たちを見守ってくれている」。渉は、その栞を大切に自分が買った分の本に挟んだ。その栞を見るたびに、美咲の笑顔と、あの古書店での出会いを思い出した。
二人の距離は、急速に縮まっていった。
放課後、学校の図書館で待ち合わせ、買った天文学の本を広げた。難しい専門用語が出てくれば、一緒に図鑑やインターネットで調べ、互いに分かりやすく教え合った。美咲は、特に彗星や流星群の話になると、身を乗り出して質問攻めにした。渉は、惑星の軌道や銀河の構造について、熱心に説明した。好きな星座や、今まで観測した中で一番感動した天体について語り合ううちに、二人は互いに深い共通の趣味があることを知った。美咲は流れ星に特別な思い入れがあること、渉は土星の環の美しさに魅せられていること。どちらか一方が話している間は、もう一方が真剣に耳を傾け、時には質問を挟みながら、まるで何年も前から知っていたかのように自然に会話が弾んだ。
週末には、二人で都内のプラネタリウムに足を運んだ。満天の星が広がるドームの中で、解説者の穏やかな声に耳を傾けながら、遠い宇宙の果てに思いを馳せた。解説が終わると、二人はしばらくの間、席を立つことも忘れて、静かに星空を見上げていた。時には、プラネタリウム近くのカフェに立ち寄って、宇宙をテーマにしたデザートを注文し、笑い合った。渉は、美咲が宇宙の話をする時の、子どものように目を輝かせる表情が大好きになった。彼女の瞳は、まるで小さな宇宙を宿しているかのようだった。美咲は、渉が専門的な知識を披露する時の、真剣ながらも楽しそうな横顔を愛おしく感じていた。
ある日のこと、図書館で、美咲がふいに言った。「ねぇ、私たちの星座って、もしかして同じなんじゃないかな?」渉が「え、どうして?」と聞くと、美咲はいたずらっぽく微笑んだ。「だって、初めて会った日から、なんとなくそう感じてたの。もしかして、星が私たちを引き合わせたとか?」二人はスマートフォンを取り出し、互いの生年月日を照らし合わせてみた。すると、驚くべきことに、本当に二人の誕生星座は同じ「いて座」だった。偶然とは思えない奇跡に、二人は顔を見合わせて、まるで魔法にかかったように声を上げて笑った。星が、本当に二人を引き合わせたのかもしれない。そんなロマンチックな予感が、二人の胸に芽生えた。
季節は巡り、空気が澄み渡る秋の夜。学校の文化祭の準備が一段落した金曜日の夜だった。渉と美咲は、インターネットで見つけた、街の明かりがほとんど届かないという「星見ヶ丘」に上る計画を立てた。最寄りの駅からバスに揺られ、そこからさらに舗装されていない山道を数十分歩いた。街灯一つない道を進むにつれて、空には星の数が増えていく。少し息を切らしながらも、二人は期待に胸を膨らませて丘の頂上を目指した。懐中電灯の光が、二人の足元をぼんやりと照らしていた。
丘の頂上に着くと、視界いっぱいに広がる夜空に、二人は思わず息をのんだ。街の灯りははるか下に見え、まるで宝石をちりばめたかのような満天の星が、頭上を覆っていた。天の川が白くたなびき、無数の星々が瞬く光景は、息をのむほど美しかった。持参した簡易レジャーシートを広げ、二人は並んで座った。肌寒いはずの夜風も、この感動の前では気にならなかった。
「すごいね…」美咲が、感動に震える声でつぶやいた。その声は、星々の輝きに吸い込まれてしまいそうに小さかった。美咲は、そっと渉の肩に寄り添った。彼女の温もりが、渉の心にじんわりと広がる。渉もまた、美咲の肩に手を回し、二人で同じ夜空を見上げた。吸い込まれるような漆黒のキャンバスに散りばめられた宝石のような星々は、二人の心に静かな、しかし確かな感動をもたらした。互いの温もりを感じながら、二人は言葉もなく、ただひたすらに宇宙の壮大さに心を委ねた。
その時だった。夜空を切り裂くように、一筋の光が尾を引いて流れた。流れ星だ。
「あ…!」美咲が小さく、しかしはっきりと声を上げた。二人は瞬きもせず、その儚い光の軌跡を目で追った。流れ星はあっという間に消え去り、再び静寂が訪れる。だが、二人の心には、その一瞬の輝きが深く刻み込まれた。まるで、二人の未来を祝福するように流れた、特別な星のように。
渉は美咲の顔を見た。星の光を映した美咲の瞳は、いつも以上に輝いていた。その瞳の奥には、言葉にはできないほどの感動と、彼への静かな想いが揺らめいているように見えた。二人の間に言葉はいらなかった。ただ、夜空を見上げる二人の肩が、そっと触れ合っていた。星が、そして宇宙が、二人の出会いと、この特別な瞬間を、静かに見守っているかのように。二人の心には、まるで宇宙の広がりを感じさせるような、穏やかで温かい感情が満ちていた。